曲学阿世
曲学阿世
[よみ]
きょくがくあせい
[意味]
世に受け入れられやすいように真理を曲げること。曲学は真をねじ曲げた学問、阿世は世間に媚(こ)び諂(へつら)うの意。
[書き下し文]
学を曲げて世に阿ねる
[出典]
司馬遷『史記・儒林列伝』【白文】今上初即位復以賢良徵固。諸諛儒多疾毀固曰固老 罷歸之。時固已九十餘矣固之徵也。薛人公孫弘亦徵、側目而視固。固曰公孫子務正學以言無曲學以阿世。【訓読文】今上即位により、復た賢良を以て固を徵せんとす。諸諛儒多く固を疾毀して曰く、「固老なり」と。罷めて之を歸らしむ。固已に九十餘の時、固徵せらる。薛人公孫弘亦徵せられ、側目して固を視る。固曰く「公孫子、學に正し言を務め、學を曲げ世に阿ねるなかれ」と。【現代語訳】今上帝(武帝)が即位する際に、賢者であることから轅固を召し出そうとしたが、取り巻きのおべっか使いの儒学者がこれをそねんで、「轅固は年寄りです」と中傷したので、結局帰郷させることとした。そして、轅固が90才あまりになったとき又召し出された。同じ時に、薛の人である公孫弘も召し出されていたが、(いぶかしんで)轅固を横目で見た。轅固が言った、「公孫先生、学問に従って言行をなさい、学問を曲げて、世間に阿(おもね)ることの無いように」と。(解説)轅固は、前漢の景帝から武帝にかけての儒学者。詩経の権威であり、清廉で率直ではあったが、歯に衣を着せない言動で景帝の母を怒らせるなどしたため、中央から長く遠ざけられていた。
[用例]
曲学阿世の徒:そのような行為を行う人々。僕は紅毛人たちの信ずるやうに自殺することを罪悪とは思つてゐない。仏陀は現に阿含経の中に彼の弟子の自殺を肯定してゐる。曲学阿世の徒はこの肯定にも「やむを得ない」場合の外はなどと言ふであらう。しかし第三者の目から見て「やむを得ない」場合と云ふのは見す見すより悲惨に死ななければならぬ非常の変の時にあるものではない。(芥川龍之介『或旧友へ送る手記』)
『Wiktionary』より
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